Masuk夜の空気は、冷たくて鋭かった。 工房の灯りだけが、暗い街の中で白く浮いている。 若手たちはラインの確認に散り、後藤親方は古い図面を広げて、配管と温度計の位置を確かめていた。 沈んだ紅葉は、まだテーブルの上に残っている。 失敗の証拠みたいに。 でもさっきまでとは違って見えた。 まだ、終わりの顔をしていなかった。(あきらめたくない) 胸の奥で、はっきりと言葉になった。「……明日夕方じゃ、間に合わない。 ——今から、手に入るだけ買い集めるわ」 自分の口から出た声に、迷いはなかった。 その言葉に、後藤親方の目がわずかに見開かれる。 沈みかけていた工房の空気が、ふっと揺れた。「……朝倉さん、それ……できるんか?」「やるしかない。間に合わせる」 きっぱりと返すと、 周囲の職人たちが顔を上げた。「…………マジか」と誰かが呟き、「いけるかもしれん」と別の声が重なる。 暗かった視線に、ほんの少しだけ光が戻る。 工房の空気が変わった。 目の奥に、また火が灯りはじめる。(そうだ)(終わったって決めつけるのは、いつだって外側の誰かだ)(ここで諦めるかどうかは——私たちが決める) スマホの画面には、まだ小さな♡が増え続けていた。 見知らぬ誰かの「がんばってほしい」が、 胸の奥で静かに繰り返される。 私は深く息を吸い込んだ。「仕入れ先、当たれるだけ当たる。 在庫があるところには、全部お願いするわ。 トラックが無理なら、分けてもらって私が取りに行く」 言いながら、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。 外では、完全に日が落ちていた。 後藤親方が、ゆっくりと頷く。「ほな、わしらはラインを整える。 どこから何箱来てもええように、準備しておくで」「お願いします」 スマホを握り直す。 もう、震えてはいなかった。(まだ終わってない)(ここからだ) 沈んだ紅葉たちが並ぶ工房の真ん中で、小さな♡と、職人たちの視線と、自分の中の火が、同じリズムで脈打っている気がした。 私は一件目の番号をタップした。 長い呼び出し音が鳴り始める。 発売は三日後——残された時間は、もうほとんどない。 だからこそ、ここからが勝負だった。 スマホを握る指先が強張る。 仕入先に電話をかけては断られ、またかける。 画面の隅では、時刻が1
(晴紀……どうか倒れないで) 祈るような気持ちでデスクに戻った瞬間、スマホが震えた。 《京都工房・後藤親方》の文字に、背筋がすっと冷える。『……朝倉さん、来てくれへんか。全部、沈んだ』(今……?)(秋の企画が……間に合わなくなる) 短い声に、切実さと諦めきれない焦りが滲んでいた。「……わかりました。すぐ行きます」*** 京都の工房は、異様なほど静かだった。 銅鍋の音も、乾燥機の低い唸りもない。働く音が一つもなかった。(……嫌な静けさ)「朝倉さん!!」 若手が駆け寄ってきた。顔色が悪い。「全部……ダメです……。《希望の赤》、ジャム層が沈んで……!」「……全部?」「今朝の百個、全滅です……!」 息が止まった。 さっき屋上で、まだ終わってないと自分に言い聞かせた、その直後なのに。 赤い影を抱えた琥珀糖が並ぶ作業台が、まるで失敗の証拠のように沈黙していた。(嘘……どうして今日……?) 視界の端が揺れる。胸の奥で、さっき灯った光が、音を立てて砕けた。 その時、後藤親方がゆっくりと近づいた。 沈んだ一粒をすくい上げ、光に透かす。「……今日は素材が悪うてな。無花果が少しゆるい。糖度はええけど、粘りが足りへん」(素材……それだけで、全部?) 喉が詰まった。 挑戦なんて言わなければ……と思った瞬間、胸が痛んだ。「見極めが甘かったのは、わしや」「親方のせいじゃ——」 言おうとした瞬間、声が震えた。「ええんや。挑戦受けた以上、背負うのは親方の役目や」 若手が唇を噛む。 私は涙をこらえたまま、テーブルの赤い沈殿を見つめる。(……違う。 私が無理を言わなければ——) 親方は温度計を握りしめた。「……やり直すぞ」「でも、発売まで三日しか……!」「無花果は明日の朝イチで届く。そこから一発勝負や。 今日は、わしと若い衆三人で、夜通しライン直すで」(夜通し……? 親方が……?) 胸が締め付けられる。 晴紀が銀行を回って折れかけていた姿、背中を抱いたあの感触が蘇る。(あの人の最後の賭けを、私が折るわけにはいかない) でも、足が動かなかった。 息が乱れ、胸の奥の小さな火が、いまにも消えそうだった。(……ごめん、今だけ……無理) 工房の蛍光灯が白々と光り、沈んだ紅葉だけが静かに沈んでいた。「……朝倉さん」
神園家撤退から二か月と二週間。 残り資金は十日分。 SNSでは〈清晴堂、死のカウントダウン開始〉という投稿が拡散されていた。 秋企画《希望の赤》は順調。 経営改革も痛みを伴いながら進んでいる。 ……でも現金がなければ、何も続かない。 本社の自動ドアが音もなく開くと、 そこへ雨に濡れたコートの男がゆっくり歩み入った。 清水晴紀。 一歩踏み出すたび、 濡れた靴底が床に小さく跡をつける。 ネクタイは結び目が緩み、バッグの持ち手を握る指は白く、肩はわずかに落ち込んでいた。 受付の社員が声をかけようとしてやめた。 その表情だけで、結果が分かってしまったからだ。 (……今日もダメだったんだ) 晴紀はそのまま、 息を落とすように社長室へ入った。 *** 社長室には先に悠斗がいた。 彼は資料を広げたまま兄の姿を見て、眉をひそめた。 「……三行まわったんじゃ?」 「四行だ。最後の一行は…… 神園家の支援が戻る見込みがあるならって……」 そこまで言って、晴紀の声が途切れた。 悠斗は書類を閉じ、静かに言った。 「兄さん、まず靴を脱げ。びしょびしょだ」 「……悪い」 靴を脱いだ晴紀は、デスクに両手をつき、ただ立ち尽くした。 「悠斗……どうすればいい?」 それは兄としてではなく、ひとりの迷った経営者が絞り出した問いだった。 悠斗は淡々と、しかし決して冷酷ではない声で答える。 「経営改革は進んでいる。 秋企画もSNS指標がいい。 未来はある。問題は明日と来週だ」 「分かってる……。 分かってるけど……資金が、もう……」 「まだ手はある」 「どこだ?」 晴紀は縋るような目で弟を見る。 悠斗は息を整えて、静かに言った。 「国内はもう厳しい。 でも海外を含めれば、まだ六つ動ける先がある。 とにかく——できる手は全部尽くそう、兄さん」 その言葉に、晴紀の指が少しだけ震えた。 「……十日で、間に合うか?」 「分からない。でも、探す」 短い静寂が落ちる。 その沈黙が、逆に現実の厳しさを突きつけていた。 やがて晴紀は、深く息を吐いた。 「……風、吸ってくる」 「行ってこい。兄さんは少し休まないと倒れる」 晴紀は頷き、屋上へ向かった。
エントランスの前で、晴紀がふっと立ち止まり、私を見下ろした。「……部屋まで送る」「だめ……それは困る」 きっぱり言ったつもりだったのに、声が頼りなかった。「仕事相手と二人で、部屋の前までなんて……誤解される」 言い切った瞬間、視界がわずかに揺れた。(……まずい。立ってるだけで、ふらつく) 次の瞬間、晴紀の手が私の肩に触れた。 躊躇のない、でも強すぎない支え方。「無理するな。今日は送らせてくれ」「でも……」「誤解より先に、途中で倒れられる方が困る」 その声に、言い返す力が抜けていく。 気づけば、指先まで包まれていた。「……行くぞ」 短い一言。 それだけで、私は頷いてしまった。*** エレベーターの中。 手は離れないまま、言葉もない。 ただ、呼吸の音だけが近い。(……離さないんだ) 嬉しいのに、怖い。 心臓が落ち着く暇をくれない。 扉が開き、夜の廊下が静かに広がる。 一歩進むたび、握られた手の温度が、じわじわと身体に回ってくる。(晴紀が……私の部屋まで来るの、初めてだ) 角を曲がった、その瞬間。 私は思わず足を止めた。 廊下の照明の下。 私の部屋の前に、ひとり、立っている。 紙袋を手に、壁にもたれて。 まるで――待っていたみたいに。 Dだった。 一瞬、時間が止まる。 晴紀の指が、わずかに強く絡んだ。 Dの視線が、ゆっくりこちらに向く。 驚きはない。 ただ、静かに状況を受け止めている顔。「……朱音、おかえり。昨日の打ち合わせ、具合悪そうだったから心配で」 柔らかな声。 けれど、その場を把握している冷静さがある。 私は慌てて口を開いた。「ちょっと、ふらついて……。 晴紀が、たまたま支えてくれて……送ってくれたの」 Dは小さく頷き、視線だけを晴紀へ向けた。「そうなんですね。 朱音を助けてくださって、ありがとうございます。晴紀さん」 丁寧なのに、距離を測る声。 晴紀は、微動だにせず答えた。「当然です。 ――イメージコンサルタントの、天野さんですよね。 今回の企画ではお世話になっています」 名前を確認する言い方。 線を引くみたいで、胸の奥がざわついた。 Dは、ゆっくり微笑む。「ええ、天野です。 夜分にすみません。 ……こんなところでお会いするとは」 こんなとこ
——分かっていた。 思い出してはいけない、と。 でも、身体は先に反応してしまう。 晴紀の手が、私の腰に添えられたまま離れない。 スーツ越しなのに、指の形がはっきり分かるほど、 その掌の熱が、じわりと身体の奥に滲んでくる。 支えられた腰が、 自分でも驚くほど、ふっと力を抜いてしまった。(……だめ、これ……) 胸の前には、晴紀の身体。 シャツ越しでも分かるほど、胸板が硬い。 呼吸が一度、深く上下して、 その振動が、逃げ場なく胸元に伝わってくる。 近い、と思うより先に、 彼の体温が、私の呼吸に重なった。 こんな距離で見つめられたら—— 体が、先に負ける。「……お前、寝てないだろ。限界までやりすぎだ」 声が低い。 腹の底で鳴る声で言われると、 腰を支える指の圧がさらに深くなって、 身体がつい、そっちへ寄ってしまいそうになる。「秋企画が……どうしても今日中に——」「分かってる。ずっと見てた。 だから言ってるんだよ……倒れるほどやるな、朱音」 朱音と呼ばれた瞬間、胸板の前で、呼吸だけがぶつかった。(こんな声……抗えなくなる……)「……晴紀……」 名前を呼ぶと、 彼の手が、腰からゆっくり上へ移動した。 背中のラインを確かめるように、スーツ越しに指先がそっと触れる。 その手が頬へ向かう。 触れてないのに、肌が先にざわつく。(触れられたら……もう、立てなくなる……) 指先が頬の前で止まる。 触れていないのに、そこだけ空気が張りつめた。 腰を支える掌の圧が、わずかに深くなる。 息をすれば、触れてしまいそうで、 どちらも、次の動きを選べずにいた。(キスされる……)(されたい……)(でも——今は) 目を上げると、晴紀は真っ直ぐ私を見ていた。 逃げ場を失うくらい、まっすぐで、苦しげで、どうしようもなく優しい瞳だった。 その視線を受け止めたまま、 数秒——いや、数秒以上の長さで息が止まる。(……この距離で、こんな風に見つめられたら) 胸が痛いほど高鳴って、 理性のほうが先に溶けてしまいそうだった。 限界みたいに、 静かに、ゆっくり。 晴紀が—— 先に視線をそらした。 切なそうに、苦しそうに、 自分を抑えるみたいに、ほんの一瞬だけ目を閉じて。「……くそ……」 小さく噛みしめるように
二か月が経った。 清晴堂は——かろうじて生き返りかけていた。 不採算部門は痛みを伴いながらも閉じ、工房の動線が改善され、店舗の原価率が数字で見えるようになった。伝統派の抵抗は想像以上に強かったが、それを押し切ったのは、晴紀と悠斗の執念に近い踏ん張りだった。 (よくここまで……来た) そして、秋企画《希望の赤》も、静かに、でも確実に灯を大きくしていた。 京都と東京を何十回も往復して、職人と五十以上の試作を重ねた。 琥珀糖に果実ジャムを内包し、 さらに中心で林檎の蜜煮の芯を揺らす構造など、 技術的には無理と言われて当然だった。 でも——秋の光をそのまま閉じ込めたような和菓子が、どうしても必要だった。 伝統の技で、洋菓子の果実感と透明の紅葉を三層で重ねる。 それが清晴堂の未来になると思った。だから反対されても、失敗しても、職人と一緒に前へ進んだ。 ある朝、 琥珀糖の外殻が澄み、 その内側で果実ジャムが瑞々しさを保ち、 中心の芯が揺れる―― 三層すべてが狙い通りに噛み合った、その瞬間—— 工房が、静かに沸いた。 その無謀な挑戦の物語ごと、《希望の赤》はSNSで火がつき、マーケティングの核になった。 (これは、いける……はず) でも寝てない。 目の奥が痛い。 二日前なんて、職人に無理やり帰されるまで工房にいた。 ——そして、その朝。 駅の大型ビジョンいっぱいに《希望の赤》が映った瞬間、立ち止まった。 透き通る薄紅の琥珀糖がパリンと割れ、 無花果のジャムと林檎の蜜煮が、光を受けて滲む。 ——ほんの一瞬で、紅葉が散ったみたいだった。 「なにこれ……」 「和菓子でここまでやる?」 「この動画、バズるでしょ」 通勤客が次々スマホを向け、Xではもうタグが立ち上がっていた。 #希望の赤を割ってみた #紅葉を閉じ込めた琥珀糖 ジャムの艶、薄膜の透明感、包丁のパリン。 映像映えが完璧すぎて、火がつく予感がした。 でも、それだけじゃない。 (Dが動いてくれた……) 影でDがインフルエンサー群に種をまき、「清晴堂・老舗の最後の挑戦」という物語ごと拡散させていた。 和菓子の美、職人の執念、老舗の瀬戸際というストーリー—— その全部が重なって、







